『free』じゃなくて、『self-directed』

posted in: 未分類 | 0


フリースクールってそもそもfreeっていう単語が入ってるし、デモクラティックスクールは特に、なんにも決まったカリキュラムがなくて、子どもが自分で決めてやりたいことをする、というスタイルなので、
自由、という言葉が、公開しているもののどこにも使ってなくても、勝手に独り歩きすることがよくある。(一番最初の草案には自由という言葉を入れてた、たしか。)
「自由じゃないじゃん」「自由なんてないんだ」「自由には責任がともなう」「自由をはきちがえている」「究極の自由とは」などなど。
今にして思うと、「自由」について話していたのではなく、それぞれの心の「不満」や「不自由」について話していたのだと思う。言葉や考えの空中戦ではなく、そこに耳を傾けられたら建設的な違いを生み出せる可能性があったんだろう。という反省にいくと長くなりすぎるので(笑)

自由というのはとてもとても大切な言葉だから、それぞれ心の中にとっておいて、自由という言葉を使わずに、学校の方針をもっと的確にあらわす表現はないだろうかとずっと考えていた。
ハドソンバレーサドベリースクールの動画を見ていた時、「What if the only person evaluating me was me?」(もし、自分を評価するのが、自分自身だけなら?)
というのが出てきて、これが肝だ、と思った。

それで、新しいホームページで学校の『めざすもの』、という文の中に、この表現を借りた。メンバーにも「そこは大事」といってもらった。
条件や状況によっての制限は常にある中で、その上でどうするか、という最終決定に、他人の評価や基準による規制が入らないこと。
他人の評価や基準がかならずついて回る人生の中で、自分自身で自分を評価し、自分自身で自分の行く道の方向をつけていく、ということ。
このように書いてみると、これはデモクラティックスクールのことじゃなくて人生そのものだな、、、。
self-directed(自分で方向づけている)のか、other-directed(他人によって方向づけられている)のかは、
外部条件の問題ではなくて本当は内部のことなので、公立校にいようがフリースクールにいようが、会社勤めであろうが自営業であろうが、人は必ず両方を持ち合わせて行ったり来たりしている。
そんな中で、いつもいつも、self-directed に意識があること、そこへ向かうこと。戻ること。それを大事にしていきたい。

余談:自由ということばは、自らに由る、と書く。だから、本来は、self-directed ということだ。でも、self-directedを翻訳かけると「自主的」という、これまた手垢のついた言葉になってしまう。
深いな~、中国語っていう話と、言葉はやっぱり不自由だから(笑)、追及はそこそこにしようっていう話。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です