初泳ぎ、に思う

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6月19日。今年の初泳ぎは早かった(^^)
以前スクールのメンバーで(前身の熊野新しい学校時代)、今はホームスクーラーの近所の兄妹たちと、スクールから徒歩7~8分(今日は自転車)の川遊びスポットで落ち合って一緒に。

わたしは30秒2回が限界の水温(計ってみればよかったな)でももっと上流の自宅前でしょっちゅう泳いでる彼らは「ぬるいぬるい」、最初は「つめて~~~」と叫んでいたメンバーの子も結局1時間、結構水の中にいっぱなし。

ホームスクーラー兄が自作の船を、これまた手作りの専用リヤカーに載せて運んできて浮かべ、自在に操っていた。みんなで大騒ぎの楽しい時間。

これからこの川遊びパターンが増える時期。

ここの廃校木造校舎には、このホームスクーラーたちも時々来るし、週末には公立小に行ってる子たちもゲーム機もって遊びに来る。

結構多様な育ち方をしている子どもたちの交差点になっている。

そんでもって、こどもたちにとってもわたしにとっても、そのことが特に問題にはならない。

話が飛ぶ様かもしれないけど、

特殊なフリースクールで育ってると将来外の世界に出てからあまりに違いすぎてギャップに戸惑ったり困ったりするんじゃないか、ていう話をときどき聞く。

まあ、確かに。知識としてはいろんな違う世界があることを知っていても、実際にちがいを体験したらカルチャーショックはあるかもしれない。

でも、それって日本からどっかよその国に行ったって起こることだ。もしある人が「外の社会で生きていけない」くらいの状況に陥るとしたら原因はもっと複合的なものだろうから、どんな教育環境にいたか、だけじゃなくて、いろんなことをていねいに見て、サポートが必要ならサポートする必要があるだろうと思う。

世界には、文化の数、組織の数、地域の数、家族の数、最終的には人の数だけちがう理屈やルールが林立していて、それがとなり合ったり絡み合ったりしながら重層的な織物を形成している。

隔離したり情報統制したりしてるわけじゃないなら、子どもたちはどんな場にいても、自然にそれらを見たり聞いたり感じたりして育つ。マイノリティに属してる方が、多くのマイノリティの存在にすこし気が付きやすいかもしれないけど、今はメディアも多様だから、そんなにどこにいたって変わりはないような気もする。

将来、カルチャーショックを楽しんだり相手のカルチャーを尊重したりできる人が多く育ったらいいと思う。

でもそのためにできることって、ただありのままを感じながら生きる彼らに任せるくらいしかない気がする。
そのときに、「こっちが正しくて、あっちはあそこが問題」とかギャラリーが横から言わないのはかなり大事だと思う。それが悲しい分断を引き起こす。

逆にそれがなければ、ここはこんな感じ、あっちはあんな感じ、ってだけだ。

個人の自由が最大限重んじられるアメリカの人でも、ヒンドューの寺院にタンクトップと短パンで入ったりする人はそういない。

ちがいがはっきりわかっていて、境界線がはっきり分かっていれば、そこに問題は起きない。

デモクラティックスクールと、ホームスクールと、公立校の子どもらが交差する場所で、たくましく育つ子供たちを見ていて思ったこと。

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