デモクラティックスクールとNVC

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NVC(Non Violent Comunication=非暴力コミュニケーション)というのを聞いたことがあるだろうか。

 

http://nvc-japan.net/

 

誰が伝えるかによって何が伝わるか変わるので、興味のある方への一番のおすすめはNVCジャパンのホームにある、提唱者マーシャルローゼンバーグさんのワークショップの動画。

 

日本のNVC第一人者で、ローゼンバーグ氏の本の日本語訳も手がけた安納献さんが、まるで映画の吹替えみたいに生き生きした同時通訳をあてている。3時間と長いけれども、流し聞きだっていい。興味がある人にとってはあっという間。原語版と日本語版を合わせたら間違いなく100回以上聞いている。

 

私がNVCに本格的に興味を持ったのは、2018年、前身の熊野新しい学校からデモクラティックスクールくまのびになって再出発したころだ。

 

もともと紛争解決の手法として有名なもの。対立のある現場で話し合いによる和解をはかる人たちの多くが学んでいることなので、話し合いを運営の中心に置くデモクラティックスクールに有用なスキルだっていうことはもちろんあるんだけど、

 

そういう表面的なことだけじゃなくて、コアな哲学に共通点を感じる。

 

自分の責任、ということの大事さを中心に据えていることだ。

 

私が私の責任で自分の学び方を決めていく、のがデモクラティックスクールの基本。

私が私の責任で、自分の”well being”=心身の良い状態、を作っていく、というのがNVCの基本。

 

責任いう言葉は、自己責任という言葉も含めて他人に対して用いられることがあまりにも多くて、人を責める、あるいは人に責められる、窮屈で冷たいイメージに覆われてしまっている。

 

けれでも、NVCのいう責任という言葉は、あくまで自分が自分に対して使うもの。「ねばならない」とか「あるべき」の話じゃなくて、よくよく聞けば、もともと世界も人もそうなっている事実。その事実の受け入れによって、少しでも人が自分の”well being”に近づくことを願って使われている言葉だと思う。

 

人はみんな、結局自分で選択したことしかしていないし、それによって自分の身に起こることを自分が受けているんだから責任を負っている。誰もがそのときのベストを尽くしてそこにある。それを自分についても他人についても、知っていた方がより幸せに近づくという話。

 

「あなたの幸不幸の状態は、あなたが作っているものである」

 

というメッセージを聞いたとき、

「私が不幸なのはみんな私のせいだっていうの?!」「あの人がこうしてくれないから」「あの人たちがああするから」「世の中がこうだから」「親がこうだから」→「私はこうなんだ!!」 

 

という反応と、

 

「そうか、自分が良い状態になるかどうかは、自分で決められることなんだ、自分にできることがあるんだ」

 

という反応があるとしたら、

 

これから長い人生を生きて行く子どもたちに持っていてほしいものは、圧倒的に後者だ。

 

後者の反応ができるだけで、どんな状況にあっても人は良い状態に向かって歩き始めている。

 

前者の反応が自分を支配しているときは、人はうずくまってどこにも行けなくなってしまう。

自分の不幸や前に進めない状態がほとんど誰かや何かのせいだったら、自分にできることがないからだ。

 

動画の最後の方で、参加者から、「虐待にあった子供が、どうやって自分のあり方に責任を持てるというのか教えてほしい」という質問が飛ぶ。

それに応えるマーシャルの愛情にあふれた言葉の中に、あるいは、ルワンダで家族を虐殺される被害にあった女性の話を紹介する言葉の中に、NVCでいう「責任」の意味が聞こえてくる。

 

誰かや何かが、自分のニーズを満たすためにはありがたくない形でふるまったり存在したりすることはもちろんある。というか、そんなことだらけかもしれない。でも、その条件や環境をどう受け止め、どうプロセスしていくかで、自分の人生はポジティブにもネガティブにも変わっていく。それが自分の責任というもので、デモクラティックスクールの理念とすごく通ずると感じる。

 

「一般的にいって、これこれを今やっておけば社会に出てから良い人生が送れる可能性が高くなる。(やらないと低くなる)」というのが、教育カリキュラムのメッセージだと思う。アベレージな経験則の集大成という意味では、一理も二理もあるのだろう。

 

デモクラティックスクールは、あえてそのセットを子どもたちに提供しない。(子供側のニーズでアクセスするのはあり。よくそこが誤解されるので念のため)

「君の人生を、持続的に、良いもの、幸せなものにしていくのは君の責任であり、君にはちゃんとその力がある」というメッセージを、何よりも一番に伝えたいからそうしているのだと理解している。

 

デモクラティックスクールをやっていくのに、というか、人が育つ場所を運営していくのに、NVC的な考え方を真剣に身に着けたい。(呼び名はなんでもいいのである。同じようなものの見方を、別の名前や、無名の自分の考えとして持っている人もいるだろう。私にとってはその出会いがNVCだっただけ。)

 

ただ、ほんとうに、言うは易し、行うは難し、だ。特に、長く生きてきた大人にとっては。

 

ここからは、自分の今の時点のNVCの理解なので、これ読んでそんなものなの?で終わらずに、ピンと来るものがある方は、マーシャルの動画をみてください。

 

人のリアクションは二層構造になっている。

 

脳が思考することと、心が感じていること。(動画の中では、これにジャッカルとキリン、というわかりやすいアイコンをあてている。でも、そうすると、これまでの思考の癖で、二元論的にどっちが良いとか正しいとかの世界に陥りやすい気もするので、個人の中に両方持っているもので表してみた。)

 

人は生まれた時からしばらくは、万人に共通の心の言葉でしゃべっているが、だんだん脳が思考していることでそれを分厚く覆っていって、自分の心とのつながりを見失う。

 

脳の言葉は、解釈・診断・批評などで構成されているので、この言葉でコミュニケーションをとっていると、話せば話すほど、また新たな解釈・診断・批評が、はてしなく生まれる。

 

一般的に言う、理性的・感情的、という分け方とはまったくちがう話。

 

NVC的に見ると、いわゆる感情的な状態の人は、逆に心とつながることができていない。感情に突き動かされているかもしれないけれど、血流は頭にいって脳の言葉で解釈や攻撃や防御をしている。夜になっても寝れずに言葉が頭の中を駆け巡ったりしているようなら、心とは遠いところにいるのだ。私自身、たくさん覚えがある。今はそんなことはやめて、夜は寝て自分を良い状態に少しでもするようにしている。

 

長年心を分厚く覆ってきた脳の言葉の特徴をしって、いかに自分がそれを使っているかに意識を向けるのが第一歩。そのときに、自分の解釈と、事実をきちんと分けてみる、という訓練が必要になる。ファクトフルネスの訓練にもなるってことだ。

 

デモクラティックスクールの関係者が、自分の解釈、自分の不安、自分の恐れ、と、子どものしていることを、切り分けることができずにつなげて評価や感情に走ってしまったら、なかなかこの学びのスタイルが子どもに伝えたいメッセージを伝えることができない。

 

だから、この訓練も本当に大事だと思う。

 

そして、

目指していることはその先に、心とつながることだ。

 

心を開いて話す、腹を割って話す、という言い回しが昔からあるくらいだから、NVC的な知恵は昔から普遍的にある。

 

ところが、自分の心と真剣につながろうとしたとき(まず先に自分の心。他人の心は、それができれば自然につながることができるから考えなくてよい。逆に他人とうまくつながれないのであれば、自分の心とつながっていない証拠である)それがなかなかすぐには行かないことに気が付く。

 

私自身、NVCの考え方に出会ってからだいぶになるが、

あー、自分の心とつながる、というのはこういうことかな、と片鱗を掴んだのはごく最近だと思う。

 

友人のインストラクターにお願いして個人的なセッションを何回もしてもらった。

 

彼女が、ニュートラルに、解釈も批判も、逆になぐさめも加勢もせず、私が私とつながることを助けるように話を聞いてくれる。そういうあり方が、なぐさめてもらったり味方になってもらうより本当に人を安心させることも、自分が受けてはじめて実感した。

(私自身はよく、なぐさめや加勢という名の”暴力的コミュニケーション”を取る傾向が強かったと思う。それがなぜ暴力的なのか、ということも、マーシャルの動画に登場する。もちろん、解釈や批判だっていっぱいやってきた。)

 

批判も解釈も教育も攻撃もされないから、本当に安心した状態で話ができる。

そんな時間を何時間も持たせてもらって、やっとはじめて、たとえばどんなに自分が傷ついているかとか、悲しいとか、怒っているとか、残念だとか、どういうことのぞんでいるか、ということと、自分がつながっている状態を、知ることができる。それは、決して感情的に荒れていない、とても静かで、少し温かい状態だ。

 

座禅をして、自分の心の中の嵐のような思考に巻き込まれてリアクションしまくっている状態から、リアクションが静まってきて、ほんとに一瞬かいまみえる静けさに似ている。

 

でも、少しでも座ったことのある人ならわかると思うけれど、そんなものは一瞬で掻き消える。だから、繰り返し、心とつながる練習が必要だ。

 

寄り添いながらもニュートラルに聞く(それが本当の寄り添うということなんだけど、ふつう寄り添うというと、もっと相手寄りになることをイメージすると思う)、そういう聞き方のことを、マーシャルの動画の中で「高性能のキリンの耳をもつ」と呼んでいる。

 

痛んでいる多くの心のそばに、高性能のキリンの耳が一個づつあったらどんなにいいかと思う。

自分ではなかなか治せない深い痛みというものはある。

 

でもそんなにたくさんのキリンの耳が世の中にはない。

キリンの耳の介在がないと、誰もそれをねがっているわけではないはずなのに痛みを生み続ける。そんなことがたくさん世の中にころがっている。

 

キリンの耳を身に着けたい。

 

何かの技能やテクニックを学びたいと思ったときに、適切なインストラクションと練習が必要であることを否定する人は少ないと思うけれど、自分の心の扱い方については、インストラクションだのワークだのを煙たがる人が多い。あまりにもいろんなタイプのものが世の中にあって、他人によって自分にフィットしないものが押し付けられることも多いし、そうした場合の拒否反応はほかの分野の比じゃないってことはあると思う。

 

今私がこんな文を書いて出すことによっても、押し付けを感じる人だっているだろう。それはもう、そうじゃないんだけど、って言ったところでしかたない。

 

自分にフィットするものを、自分で見つけ、自分で学ぶ必要がある。私にとってはそれが、NVCだった、というだけ。

 

NVCを学ぶことはよく、新しい言語の習得にたとえられる。

でも私の感覚としては、サーフィンやボディボードのような、生まれつきは持っていたはずの自然な感覚をもう一度みがいて、それを新しく学びなおし、訓練して上達することに似ている気がする。

 

私の大好きな  TED Talkで、行動科学者のB.J.Foggがマウイで行ったスピーチの中に、彼がパドルボードを練習した話が出てくる。最初は我流で、何回やっても少しも上達せず海に落ちるを繰り返して落ち込む。

そのあとで、自分の練習の仕方に問題があるんじゃないかと気が付いて、達人から適切なアドバイスをもらう。

『ボードや水面を見ていちゃだめだ。水平線をみるんだよ。水平線に自分をorient(一致させる)するんだ。』

それからの練習は、やはり乗っては海に落ちの繰り返しなんだけれど、着実に乗っている時間が長くなり、姿勢が安定し、上達していくのがわかった。そんな話。

 

今の自分は、そんな感じかもしれない。脳の言葉しかしゃべってこなかったことに心底思いいたると、ただ沈黙するしかないときがある。なるべく波ではなく、水平線をみる。

静かに自分の中でずっと、一生懸命に学んでいる。この文を書いたことすらほんとはよけいなんだけど、久しぶりに自分のためにまとめてみた。

 

NVCのワークショップ、また熊野でやろうと思う。

 

B.J. FoggのTED スピーチ↓(英語)

https://www.youtube.com/watch?v=2L1R7OtJhWs