国語力の苗床

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子どもたちは、聞き手がいるといろんなことを伝えようとする。

昨日見た変な夢の話。
マインクラフトで自分が作っている建造物の話。
好きな映画の内容。好きなゲームの内容。
こないだあったおもしろい話。

だまっていてもインプットはどんどんする。
アウトプットには、相手が必要。
聞き手か読み手。

まだ、読み手を想定して何かを書くという段階にない子どもたちにとって、聞き手がやっぱり大きな存在だ。聞き手になると、競って話す。

昨日は二人の少年から、これまでみた夢の話をいろいろ聞いていた。
まーほんとうにおもしろかった(^^)/

国語の力って、国語のテストの点数というのも一つの尺度にはまちがいないけれど、ざっくりいえば、日本語でインプットしたりアウトプットしたりする力だと思う。日本語でのコミュニケーション力ともいえる。

耳で聞いて口でしゃべるという形から、目で読んで手で書くという形、そんで、相手の求めるものをインプットして、相手が求める形式に沿ってアウトプットする形(テストはこれに当たる)。

ざっくりしすぎてるかもしれないけど、ベースになるものはみんな同じだ。
インプットして、それをアウトプットする。

アウトプットの相手になるとき、子どもたちがあんまりうれしくない聞き方というのがある気がする。自分もいろいろ失敗して、今もよく失敗しながら学んでることだ。

簡単に言うと、子ども扱いされるのを嫌う。子どもにもよるかもしれないけどね。

で、どういうのが子ども扱いか、っていうのは難しいので、
心がけることは逆のことだ。つまり、相手を、自分の知らない情報を伝えてくれている「人」と思って聞く。

そうすると、たとえばボキャブラリーの多さをほめるとか、適当な相槌をうつとかは普通しない。

相手の説明で自分が十分情報をつかめなかったら、自分の疑問を補う質問を普通にするし、その質問も話の邪魔になるほどはしない。把握できる範囲で相手の話を楽しむことのほうが、つながっていくコミュニケーションにとっては大事だからだ。

たまに相手の知識よりこっちの知識の方がまさってると、相手をこてんぱんにやっつける大人がいるけど、子ども扱いじゃないようでいて、これも子ども扱いなんじゃないかと思う。相手への尊重があるときは、もう少しちがう情報修正を心がけると思う。
コテンパンにされると相手は話す意欲をなくして、その話題のコミュニケーションはその先あまり起こらなくなる。機会の損失。

子どもを子ども扱いして何が悪い、と思う方もいるかもしれませんが、何にも悪くありません(笑)それも子どもたちにとって良い経験だと思う。

彼らがアウトプットをし続ける相手になって楽しみたいので、自分はなるべくこういうことを気を付けてるけど、それでも、機会を損ねてることもいっぱいあるだろうと思う。

国語力、なんて大げさかもしれないけど、適度な質問をして聞き続けていると、説明力があがるのは感じる。

表現形式は、やがてもっと変化するだろう。
その手前の、ささやかな国語力の苗床。