『何でもないこと』をしている時間

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なんか謎に盛り上がって、みんなで廊下を走り回るみたいなことがよく起こる。

 

そういうのって、教育のコンテンツという観点からすると、何とも名付けられない。

 

それとか、川に何時間もいて遊ぶとき。

だまってほっといて見ていると、

けっこういろんなことを次から次へと熱中してやっているんだけど、

それも、川で遊んでました、以上。ということになる。

 

どういうことをして、何を身に着けたり学んだりしましたか、

という問いに合うと、これといえることははっきりいってない。

無理やりこじつければできるだろうが、意味を感じない。

 

こういうスタイルのスクールをしていると、毎日がそんなかんじだ。

 

みる人によっては、『何もしていないじゃないか』

あるいは

『そんなことそこでなくたってどこでもいつでもできる。わざわざスクールに行く価値はどこにあるのか。』

となる。

 

それは当然というか、しかたないと思う。

確かにはっきりと名前と価値がわかるようなことではない。

 

よその子どものことならそれもよいですね、という人は多いし、

頭では、そういう時間も大切ですね、となる人も多いけれど、

いざわが子となると、やっぱり目に見える形で何かを身に着けていって欲しいと願う。

その願いを誰が否定できるだろう。それはそれで、本当にいいのだ。

 

ただ、

『そんなことどこでもできる』『何もしていない』

という評価を聞くと、

 

そうかなあ?と、思う。

こういうことって、どこででもできるかな。今の日本の子どもたちの環境で。

こんな瞬間をたくさん持っている子どもたちって、どのくらいいるんだろう。

 

逆に、勉強して知識を身に着けたり、いわゆる名前のついた運動をしたり、何か技能を身に着けたりすることのほうが、それをしようと決めたらどこでもいつでもできるんじゃないかな。

 

でも、こういう時間って、今とれなかったら、いつとれるのかな。

今の日本の子どもたちが置かれた環境の中で、そんなにどこでもこれが許されているのかな。

 

『こういう』がなんなのかを、言葉で説明するのは難しい。ほっとかれてたっぷり時間のある子どもたちが、クリエイティブに熱中してなんでもないことをしている時間、とでもいうかな。

 

そんな時間があったら、何か意味のあることをさせなくては、しなくては、

 

そういう意識が、この社会を覆っているのだから、そんなことができる空間や時間は、

今のこの国だと、逆に貴重になっちゃったんじゃないかな。

 

そういう何とも名前の付けられない何かに熱中している子どもたちをみていると、

とても大切なものをみているという気持ちになる。

 

大人になってから、社会というものに出てから、自分の助けになるものってなんだろう。

 

答えはない。

 

それぞれが、自分の思うことを、そのときにやってみるしかない。

 

ひとつ、何年かこういうスタイルのフリースクールをやってきてみて、実感として思うことは、

 

ここに書いてきたような、子どもたちが盛り上がって熱中するようなダイナミズムは、人数がある程度いたほうが起こりやすいということ、

緩急の波があるということ、

意図して起こせない、波が全くない日もあるということ。

ただ、ある程度の人数の子どもが集まって、放っておけば、ほぼ必ず起きるということ。

 

地道に場所を開き続ける。

自分にできるのはそんなことかな。