私の書いたデモクラティックスクールまっくろくろすけの体験記のなかにもありますが、デモクラティックスクールでは子どもたちが好きなだけゲームをしたり動画を見たりしています。
保護者の人がこのスタイルをいいと思うかどうか、というのは、理念うんぬんよりも、この姿をみてどう思うかでわかれるかも、と思います。好きなように過ごしていい、といったとき、多くの子どもが、程度の差はあれすることだからです。(もちろん、しない子供もいます。)
たぶん、デモクラティックスクールを主催するような人たちは、そもそも「ゲームや動画がいいか悪いか」という問いそのものを立てていないと思います。
『本人の選択にすべてを任せる、以上』、だからです。
この方法論が効いてくるにはたぶん、ほんとうにすべてが自分に任されている、という自覚が一人一人に醸成されるだけの長いスパンで、任せて見守る必要があります。
方法論の一貫性、ということだけでなく、長くデモクラティックスクールでスタッフしてる方々は、実際に子どもたちを見てきた経験上それが大きな問題になると感じていない、ということもあるように思います。
以上は、デモクラティックスクールの、あるべき姿、みたいなものですが、自分のことをいえば、そんなに立派に”あるべき姿”してるわけではありません。
どうしても、常に何についても、いいか悪いか、という価値判断を瞬時にしてしまいながら、生きています。
自分についていえば、デモクラティックスクールがいいなー、という価値判断を、最初にしてるわけなんですよね。
だから、ほかの人の価値判断を云々いうことはできません。
私自身の個人的な話として正直なことを言えば、最初はゲームについては世代的に自分が知らず、あまりにいろんな意見があるので、危険視する声にも、逆に大丈夫だ、という声にも、自信を持って何か言えることがなく、漠然と知らないものへの感覚的な不安を持っていました。
ところがたまたま、自分の息子がゲームや動画視聴が大好きで、たくさんの時間をそれに費やして育っている姿を何年も見守ってきた結果、今、彼について、当初持っていたような漠然とした不安は消えています。
それだって、何かを保証するわけではありません。
不安を感じるのか大丈夫と思うのかは、その人が、人生を歩んでいく上で大事な力をどのようなものだと思っているかに寄って変わります。
それが常に考えている自覚的なものであることも、まったく無意識に前提として持っているものであることもあります。いずれにしても、なんらかの前提があります。
他の人から見たら大丈夫か?と不安になる現状かもしれません。
あくまで、まあいろいろあるけど、私が大事と感じるなにかがちゃんと育っている、あるいは損なわれていない、ということにすぎません。
とても個人的なことだというのをお断りしなくてはなりません。
だから、一般論としてゲームや動画視聴を好きなだけしていても大丈夫!という意見になったということではありません。
場合によるとしか言えないのです。ファクターを雑に切り捨てて単純にしてしまわないで、状況や人をいつも全体的に見る努力をしていくしかありません。
デモクラティックスクールでは、ゲームも動画も制限したりだめといったりしません。
つまりOKです。
だけど、
「ゲーム」や「動画」という個別の対象について、「よいものである」という価値判断を私がしたからOK、なのではなくて、
繰り返しになりますが、本人に選択も判断も任せる、という意味でのOKです。
本人の中に、これは自分の選択である、自分に何をして過ごすかが任されている、という自覚が浸透することを、もっとも大事にしたい、そういう場所だからです。「好きなことを好きなだけしてもいいよ、でも、ゲームは一時間ね」ということでは、前段が無効化されてしまうからです。
デモクラティックスクールという選択はいうまでもなく多くの選択の中の一つにすぎません。
将来社会に出た時に、自分の背中を自分で押していく力がついていればいい、という広い観点に立った時、親子の安定した関係から得られる安心というものの力は、ほんとに大きいように感じます。
保護者の思いや感覚と子どもの個性との相対的なバランスの中で、ひとりひとりが、そのときそのとき落ち着く線を見出せばそれでいいように思います。
ここに来るかどうか、どのくらいくるかは保護者の方々の判断に任され、
ここ、くまのびに来たときは、誰かが何かいうわけじゃないので、そうしたいろんなバランスの中での本人の選択にまかされる。
それでいいと思っています。
例えば、自分で家の人との約束で制限時間を持っていて、本人がそれを尊重することを選んでいるなら、そのことを大事にしたらいい。
それはちがうなんてやりだしたらデモクラ原理主義とでもいうものに陥りそう(笑)
家庭とスクールのルールや理屈がちがったとしても、子ども本人が困ったり混乱したりしないのならそれで別にいい、と私は思っています。
いずれは、
自分がそうしたければ、この世に存在するすべてのことに、自由にアクセスできる世界に生きて、自分の資源と時間を自分で管理するときがやってきます。
どうやったらその力がつくのか、ということに、これといった正解はないと感じています。
ほとんど多くの子どもが、学齢期がはじまると自分の一日の多くの時間について、大人がよかれと思う管理を受けて過ごすようになります。
それで自己管理ができるようになる人もいれば、ならない人もいます。
大人による管理がないスクールについても、そう単純で見えやすい形で、方法論に対する結果があるわけではないように思います。
誰にとっても、どんな育ち方をしても、自分で自分を生かすようになる、ということは一生続く課題であるだけです。
今50代の自分も、いまだにその過程にあります。
少し話が広がるけれど、
『デモクラティックスクール(のような特殊な感じのフリースクール)で育つと、外の社会に出てからあまりのギャップに困らないか』みたいな話がときどきいろんな形で出ます。
困るか困らないかも、ほんとにひとそれぞれだけど、困っても問題ないと思うんです。
困らない人生なんてないですから。
世界には、地域の数、文化の数、組織の数、さらにいえば人の数だけ、ちがうルールや理屈が同時に存在しています。
ある程度の年齢になればそういうことは見えると思うので、
彼らが見て感じるままに任せればいい、というか、任せるしかないと思います。
フリースクールを立ち上げる前後には、教育の多様性、という言葉をあやまって解釈していたなと今は思うんです。
教育の多様性を担うフリースクールは、多様なものを受け入れるんだ、受け入れるべきなんだと思っていた。
でも、多様性のモデルは自然界全体。
もっとも多くの種類の動物がすむ環境(これが公教育かな)だけでなく、とんでもない環境を選んで生きる変な生き物が無数に存在する。その存在がそのまま許されるのが多様性。
プライベートにやってるひとつひとつのフリースクールには、人的・環境的な限界があり、でもそれを逆に思いっきり生かす自由がある。
変な環境、あるいはそこを選んで生きる変な動物にあたるようなものです。
そう思ってから気が楽になりました。
いくつもの、変わった環境、変わった動物の存在がそのまま許される社会でありますように。