スクールか、コミュニティか

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毎月一回、デモクラティックスクールネットのオンライン交流会があるのだが、今月のその中で、
『なぜ、スクールと名乗るのか、コミュニティとか、スペースでもいいような気がしてもやもやする、みなさんはどう思うか』みたいな問いが出た。

そのときにいろんな方のご意見を聞いて自分も意見を言って、そのあとに少し継続して考えて現在の自分なりにすっきりしたことと、まだもやもやしているところがわかったので、それについて少し備忘録として書いてみたい。

私はこういうことを言語化して納得するのが好きなのでそうしてみたが、言語化したからといって実がどの程度なっているかはまた別の話だ。

逆に、言語化などせずともこういうことを体現しておられる人や場所が確実にある。

その程度のことだと思って、読む方は読んでいただけたら。



スクールなのか、コミュニティなのか、という違いには、
やっていることの内容の問題と、参加者が子どもだけなのか大人までいるのか、という状態の問題があって、つながっているのだけれど切り口がちがうので、分けて考える。

まず、内容の方。
結論から言うと、デモクラティックスクールはやっぱり明確に「スクール」つまり教育だな、と思った。

教育機関(スクール)なのか、そうでないのか、ということには、私たちの社会では結構わかりやすい明確な違いがある。意外と意識していないけれど。

それは、
本人以外の誰かが経済的な支援(投資ともいうかもしれないが)を行っているかどうか、ということだと思う。

学校というものができてくる前は、子供は働けるようになったらすぐ働き手だった。
年齢なりにできることで稼ぎながらそこで必要なスキルを学んだ。稼がないで、遊んだり学んだりして育つことだけに集中できる期間は本当に人生の初めの数年くらいだったのだと思う。

現代では、多くの国でそれがだいたい16~18歳くらいまで延長された。
そこまでは、その本人が対価を出さなくても、教育のサービスを、社会の誰かがお金を出して保証する、ということで社会全体が合意している。

それ以上の年齢になったら、基本的に本人か、その人が勤める企業が投資して、公的な支援はとても限定的になる(失業中とか。つまり福祉支援)

国とか社会の側の、人材育成の必要性が出発点なのはまちがいないけれど、それによって人権の意識も育って、いまでは、子供というよりは人間の、当然の権利と受け止められていると思う。つまり、子供の時代は稼がなくても学べるということ。


デモクラティックスクールも、公的支援はないものの、本人ではなく保護者がお金を出してその時間を支えている。子供が自分でお金をだしているわけではない。

公教育にくらべて本人が自分の日々行うことによって起きる結果と責任を負っている度合いはとても高いけれども、学校というものが登場する前の子供たちと比べれば、学ぶことだけに集中することを権利として保障されている。

子供だけの教育の場、ということになると、
子供を守らなくてはいけない、教え導かなくてはいけない存在だと思って対等に見ていない、ということではないのかというような自問が交流会中もでていたが(対等コンシャス度がみんな高い、、、)

そのときは言語化できなかったけれど、あとから思えば、対等というものは、条件によって左右されないものだから大丈夫なのだと思う。

条件を対等にしなくちゃ対等に見ていないということになってしまうと、近代以前の、子どもという概念もなく、すぐ大人と同じ条件に置く、というところまで戻したらいいのかという話になってしまうが、そういうことはたぶん誰も思っていない。

子供だけが教育の支援を受けるのは、大人と子供を非対等に見てハンディをつけているという話ではなく、ただ人生の出だしにその期間を持てることが誰にでも等しく認められる基本的人権だとみんなが考えている、ということだ。

それに異論のある人はそんなにいないと思う。



対等かどうかは条件に左右されない。

それは、民主主義ではとても大事なことだと思う。

納税額の多い人から福祉支援を受けている人まで、条件で一票の重さが変わらないように制度は一応設計されている。
(制度設計だけではその精神が実現していかないたくさんの課題があるのはいわずもがなだが、とりあえずそれ以前よりは前進している。)

民主主義を良い方向に機能させ、社会として成熟していくために、まだまだ一人一人の視野と意識は変容する必要があると思う。
それは単純な答えがないから教科のような情報伝達では教えられない。しかも、なにが最適解かが社会の変容によっても絶えずアップデートされていく。
包括的な体験によって各自の中に、感覚が育つしかない性質のものだ。
教育期間中にそこを実地で育てるために、国でいえば参政権に当たる、18歳で認められる権利を、このスクールでは4~6歳の入学時から、スクールに対してみな等しくもつ、という試みなんだと思う。

教育プログラムのパッケージを持たず、学びをすべて個人にまかせて、参加費と交換しているのはコンテンツのない時間と場所と、たいがい特に何もせず見守るだけのスタッフ、という日常のせいで、ふと、教育機関である感じが自分でも希薄になることがあるんだけど、

対等な発言権をもって運営していく、という肝の教育コンテンツを実は持っているのだ。(それも義務ではなく自由参加だけれどね)

だから、内容としてはまちがいなくスクール(教育機関)であって、スクールと名乗ることは自然なんだな、と納得した。

もちろん別に、名乗らなくてもいいわけだけど。




スクールなのかコミュニティなのか、に対しての別の切り口として、年齢制限のことが出ていたと思う。
参政権を低年齢から与えるとしたら、逆に上限を設ける理由はなんだろう?
たとえば、デモクラティックスクールに、自分で参加費を出してその場にいたい大人が子供と同じだけ入ってきてもいいか。


年齢の枠をとっぱらってはよくない、ということに明確な理由が出ていたわけではないけれど、経験的、感覚的に、自由な学びというスタイルが、大人の参加者も増えるとうまく機能しなくなる感じがする、というお話が出ていて、それはなんかわかる気がした。

ただ、こちらのことに関しては、教育機関の定義ほど明確な答えは今の自分にないなと思った。

将来的には、近代前とはちがう形での、学校のない状態、学校が解体された状態が来たらおもしろいだろうな~、とは思っている。

ただ、それは、今の自分の想像を超えている。
ただ、楽しみにしてればいいんだろうと思ってる。

 

少し前に、一番古くからいるメンバーに、上に書いた、デモクラティックスクールの「肝」の話をなんかの流れでしたことがある。

民主主義で全員で参政してるのに、たとえば全員が自己利益しか考えられないで主張だけして人の話を聞けないとかだと、混乱して、これだったら強い独裁の方がいいかもなんていう動きが出てくるかもしれない、

ひとりひとりが育たないと民主主義がよくなっていかない、っていうことを考えた人たちが、このスタイルの学校を最初に作った。私もそういうことを大事にしたいと思ってるんだよ、なかなかこれまでちゃんとできてこなかったけどね、、、。

という話をしたら、世界大戦あたりの歴史が好きな彼が、いたく納得した感じのリアクションをして、

以後ミーティングを結構リード&サポートしてくれるようになり、くまのびでもミーティングが充実し始めた。

 

それにしてもしみじみ、デモクラネットの交流会が自分にとってはありがたい。
相対的な位置づけとしては、ちょっと振り切ってるスクールになると思うので、こういうスクールだから起きる悩みを、今回みたいな哲学的なやつから日常のことまで、共有できる仲間がほぼ身近にいなくて、けっこう孤独だったんだなと思う( ;∀;)。

今、緊張しつつもいつも本当にこの集まりを楽しみにしている。